
雪という名の物語
雪という名の物語 ―STORY OF NAME OF SNOW―
日が昇り朝の訪れとともに目を覚ます。いつもと変わらない一日が始まった。
あれ? 隣に居るはずの彼の姿が見当たらない。いつからだろう……彼がこの部屋に居なくなってから、
ずいぶんと時が経ってしまったような気がする。
洗剤の香りのする真っ白なシーツ。一人では大きすぎる巨大なダブルベッドにツインの枕。
男物の腕時計……彼のものや彼が居たという痕跡がいくつも残っている。
……私は彼のものを捨てきれずに居た。忘れることなんて出来るはずがなかった。
彼は死んでしまったわけじゃないのだから。ただ、彼はずっとあの事故から目を覚まさないで居るだけなのだ。
あの事故の偶然が彼の意識を奪い、ベッドに横になったまま彼自身の心が戻らないだけなのだ。
朝目覚めると、ふと彼についてのことがいつも頭の中をよぎる。
同じことの繰り返しで、答えのひとつも導き出されないまま、どうしたらいいのか分からない。
一人になることに恐怖を感じ、気持ちや思考が麻痺しているのかもしれない。
私は今日、彼と病室で二人きりの時間を過ごすために有給をとった。
月に一度の面会時間。彼の家族が私に言った条件のひとつだ。
『息子は一生目を覚まさないかもしれない。だからいま息子の為に、あなたの人生を奪うわけにはいかない。
息子を思う気持ちがあるのなら、別れてやってくれないか。きっと息子も同じことを言うはずだ。そして幸せになってください』
彼の家族は私に彼のことを忘れさせるために、このような条件をいったのだ。
私のことを思ってくれているからこその気持ちが、痛いほど伝わってくる。
でも、私は彼のことがすきでたまらなく、なにか離れられない必然的な運命を感じている。
彼は目を覚ます。
絶対に、絶対に。
いつになるか分からないけれど、目を覚ましたとききっと間抜け顔でなにか言うのだろうと。
そう私は信じている。
着ていたパジャマを普段着に着替えると、冷蔵庫から牛乳を取り出しコップに注いだ。
そのまま一気に飲み干すと洗面所に向かい出かける準備をはじめた。
最近は化粧のノリが悪い。高校生、彼とはじめてあった時の私が懐かしく感じた。
彼との出会いは高校に進学した頃だった。
それから一年と少し、いつのまにかクラスメイトのだれよりも仲良くなった彼と、いつも一緒に遊んだり出かけたりしていた。
いつのまにか彼が隣に居ることが気づいた時には当然のようになっていたのだ。
そんなある日、私のロッカーに一枚のメモが入っていて
『夜七時に公園に来てほしい。』
と書いてあった。
雪が舞い降る寒い空気に肩を震わせながら私はその場所に向かうと、
彼は会ってそうそうにへんてこな告白をしたのを覚えている。
なにが言いたかったのかいまいち分からなかったのだけれど、私は彼に返事をした。
それから五年……ずっと彼のそばに居た。
出かける準備が整ったので、私は彼に貰った小さな手さげ鞄を片手に家を出た。
家から病院までは、地下鉄で二十分くらい先にある。通いなれた道や地下鉄。
嫌いではないが、乗っていると色々なことを考えてしまうので好きというわけでもない。
ホームに着くとすぐさま地下鉄はやってきた。込み合う人の流れの中、それは時間通りにやってくる。
多少耳障りなブレーキ音を鳴らしながら停車すると、雪崩のように人が押し入っていく。いつもと世界は変わらない。
なにもなく過ぎ去っていく光景だった。あと、四駅くらい過ぎれば無理をせずとも座ることが出来る。
吊り輪を掴みながらふとそんなことを考えていた。
一定のリズムで地下鉄は目的地の場所を目指して進んでいく。
駅に停まるたびに人の姿が減っていきもの騒々しかった車両内がいつのまにか静かになった。
吊り輪から手を離し空いた座席に腰を下ろした。
彼はいつになったら目を覚ますのだろうか。
どうしてそんなことになってしまったのか……いつも病院に向かう間考えてしまう。
寝たきりの意識のない彼に会った時どんな顔で会えばいいのか、なにを話したらいいのか、つい考えてしまう。
あの事故は突然のことであり偶然が重なってしまったことなのに、私はいつも悔みきれずにいる。
あの時車で海に行こうなんて言わなければ、彼が意識を失う事故なんて起こらなかったのだから。
事故発生から一年半。
彼はただ一度も目を開けることもなく、彼の家族も少しずつ諦めかけていることが私には感じられた。
だからこそ私にあんなことを言うのだろうと思う。
でも私はずっと信じて月に一回であろうとも彼のところに通いつづけたいと思っている。
いくら反対されようとも離れたくないのだからいくら家族であろうとも、この正直な気持ちには変えられない。
「……○×線トキノ駅まもなく到着いたします。お降りのさいは足元には充分お気をつけ下さい。トキノ駅まもなく、到着いたします」
降りる駅に到着した。ここから徒歩で三分と近い総合病院に彼は入院している。
病院に近づくに連れて一歩一歩足取りが速くなる。彼にすぐに会いたい気持ちがそうさせていた。
「あのぉ、失礼します。お久しぶりです佐奈です」
病室に向かうと彼のお母さんがベッドの側のイスに座っていた。
四畳くらいの個人病室であったが、窓際に位置しているので明かりがすごく入ってくる。
お母さんは眩しそうに目を細めて横になる彼の顔をじっと見つめていた。彼は無表情なままずっと眠っている。
「いつもご苦労をおかけいたします佐奈さん。本当にいつもありがとうね。きっと健も喜んでいると思いますよ」
「いえ、そんな。私はただ彼に会いたかったんです。側に居たいだけなんです」
「…………健。今日は佐奈ちゃんが来てくれたよ。私は今日は帰るからね」
彼の着替えの入った鞄を持ち、お母さんは病室を後にした。私とすれ違うさいに深く頭を下げていった。
私もすかさず頭を軽く下げて病室の中に入った。
顔色はそんなに悪くはないようだった。事故直後と比べるとほのかに頬を赤らめ、脂汗を掻いていることだけだった。
暑いのかもしれない。
被っていた布団を少しずらしてみた。さすがに冷房が効いているといえども、夏は暑い。
「おはよぉう。調子はどう? この前よりはよくなっているかな。なってるといいよね」
ベッドに腰をかけると彼の頬を触り髪をかきあげ、顔を撫でるように手を動かした。
一ヵ月会えなかった寂しさが愛しいという気持ちを押さえきれずに顔を撫でまわしていた。
「やっと会えたね。久しぶりだよ……」
じっと彼の姿を見つめていた。緩やかだった時間が急速に経過し始めていった。
外の日もいつのまにか天辺に昇るとゆっくりとまた沈んでいった。
楽しいひと時の時間の経過の早さはなんだか変な感じがする。
お昼も過ぎ私は話すことがなくなってしまった。会社のことやいま最近買ったものとか、いろんなことを話しをしたけれど、
返事ひとつ返ってこないのはやはり寂しい。
「あ、そういえば、今日ここに来る前で家に居た時にね、昔のことを思い出していたんだよ。
高校生の時で、懐かしい感じの思い出をね。あ! なんで急にそんなことを考えたかって聞かないでね。
女性にとって本当に大切なことなんだもの」
やっぱり彼と居ることはとても幸せを感じる。なんだか穏やかな気持ちになるからだ。
「へんな告白のことも思い出して居たんだよ。雪が降っていてすっごく寒い時にあんなこと急に言うんだもん。
唖然を通り越して笑っちゃったのを覚えてるよ」
『俺が佐奈のサンタクロースになりたい』だなんて、告白とはじめ思わなかったんだよ。
ベッドから降り、側にあったイスに座った。窓から射し込む日の光が眩しくてカーテンを閉めた。
「あの告白の意味はどう言うことだったのかなって、いまでも考えたりするんだよ。サンタクロースになるってことは、
よい子には眠っている時にプレゼントが貰えるのかなって。心の一番奥にあるプレゼントをくれるってことなんだよね?
そしたら私はよい子なのかな。よい子じゃないとやっぱり貰えないわけだからね」
そう言えば彼と付き合いはじめてから、なにか悲しいことや辛いことがあるたびにメッセージカードがいつもポストの中に入っていた。
優しい愛しいサンタクロースからのメッセージで、いつも元気付けられていた。私専属のサンタクロースなのかもしれない。
「あでも、たしかあの時私もへんな事を聞いたり話しをしたね。」
『ねぇ、そういえば夏のサンタクロースっているのかな?』
『うん? そうだなぁ……もしかしたら居るんじゃないかな』
『どうしてそんなことが言えるの?』
『どうしてって、雪が降ってるし時、雪にまぎれてやってくるかもしれないじゃないか』
『そっか! そうだよねぇ〜。あ、でも夏に雪なんて降らないよ』
『知ってる。だから雪以外のものを降らせばいいんだよ。きっとサンタクロースはそれを雪と勘違いして佐奈のとこに
プレゼントをもってやってくると思うんだよ』
『プッ、なに語っているのよ。なんだか屁理屈を言う子供みたい』
『あぁ、俺たちはまだ子供だからこそこんなことが言えると思うんだ。
そだろ、いまここに居るのは親が居るからこそなんだからさ。
いつか俺たちが親になったら、その時に子供から大人になるんじゃないかな』
『……そだね』
「ずいぶん昔のような感じがするよ。でもあの時はお互い精一杯子供で前向きに生きてたんだよね。
すっごく楽しかったもの。なにも考えずに幸せいっぱいで、奈にかあった時は私の専属サンタクロースもいたもの」
思い出に浸っているうちに、いつのまにか外は暗くはじめていた。
さっきまで日が射していたかと思っていたのに、時間が過ぎるのはとても早いものなんだと改めて感じた。
「さ、面会時間ももう終わりになってきちゃった。また一ヵ月会えないね。私がんばるからそっちもがんばって目を覚ましてね。
信じてるんだもの。専属サンタクロースは夢を希望を与えてくれるのだから……」
鞄を手に取りたちあがる。もう少ししたら看護婦さんがやってきて面会時間終了の話しを伝えに来る。
いつもと同じその繰り返し。それまで私は彼の側に居たいと思う。
もしかしたら、ふと目が覚めるかもしれないのだから。
一秒でも側に居て、目が覚めたとき真っ先に私が彼の視界に映りたいと思うのだ。
なんだか今日は看護婦さんがやってくる時間が遅いような感じがした。
ベッド脇の時計の針を見ると予定から十分もすでに経過していた。
「あれ、今日はまだこないみたいだね。そっか……なんだかうれしいかもだね」
再び彼の側に言ってイスに腰を下ろした。
「ねぇ、そう言えばまだ言ってないことがあったの。告白されて少ししてからずっと考えていて言えなかったことがあるんだよ……あのね、私も健の専属の
サンタクロースになりたいって。どんな願いも叶えてあげたいって思うの。いつも健が私にしてくれたように、幸せを健に与えたい。どんなことをしてでも健
にしてあげたい!」
私は彼にすがりつくように彼の肩を掴み崩れるように頭を胸の上に下ろした。訳もなく涙が心の奥底から涌き出てきた。
周りが良く見えない。ぼやけて彼の顔を直視出来ない。
「あ、そうだ。雪の変わりになるものがないとサンタクロースはやってこないんだったよね」
冷静になればいま私がやろうとすることは無駄なことで、やってもなにも変わらないことは分かっている。
だけど感情がいま私の身体を動かしていて、そんなことを考える余裕なんてひとつもなかった。
ベッドの下から来客者お泊まり用の予備の布団と枕が置いてあった。私は枕を手に取ると力いっぱい左右にひっぱった。
びりっという布の破れる音を立てて中からたくさんの羽根が舞い散った。
「ほら、これならきっとサンタクロースも雪と間違えてやってくるかもしれないね」
落ちた羽根を広い再び高く放り投げる。ゆっくりと羽根は弧を描き雪のように舞い落ちる。
何度も何度も繰り返し、病室全体にまるで雪が積もっていくような感覚になった。
「ネェ、健のことが大好きなサンタクロースがいまここに居るよ。なにが健はほしい? なにがいいんだろう。
健になんでもあげるよ、幸せになるのならなんだってプレゼントしてあげるよ」
羽根が舞う中、イスに座りなおし彼をじっと見つめていた。答えなんて返ってくるわけがない、分かっていたことなんだ。
でも、伝えたかったんだ。
私はいまずっと考えてたことやしてあげたいと思っていたことを伝えたかったんだ。
「……なにがほしいの」
自分のしたことを改めて周りの状況を見て呆然としつつ肩を落とした。
「……健は一番なにがほしいの」
「佐奈……」
微かに声が聞こえた。
*
あれから一ヵ月が過ぎた。
あの日看護婦さんが少ししてやってくると酷く怒られてしまった。さすがにやりすぎてしまったと少しだけ後悔している。
精神科にも冗談交じりに紹介されそうになったけれど、それはなかった。
私はあの日、彼に話しをした時から専属のサンタクロースになった。
キセツ外れのサンタクロース。夢や希望を。
そして、なによりも大切な人に幸せを。あげ続けていきたい……。

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